【大川平三郎】(おおかわ・へいざぶろう)万延1年12月25日一昭和11年12月30日(1859-1938)

 横沼村(坂戸市)生まれ。川越藩士大川平兵衛の2男修三と尾高惇忠の妹みち子の2男。渋沢栄一の甥。明治5年(1872)13歳の時に叔父の渋沢栄一を頼って上京。渋沢の書生をしながら、本郷の壬申義塾、大学南校(東京大学)でドイツ語、地理、歴史、英語等を学びました。8年渋沢の世話で東京府王子の抄紙会社(王子製紙)に入社し、絵図引方並びに機械据付手伝などの仕事を命ぜられました。しかし、外国の技師が紙をすくのを見て、「この会社では紙をすくことが最も大切な仕事であり、自分もいつまでも図工になっていてはいけない」と決心し、自ら求めて職工となりました。平三郎は早朝から深夜まで働き、勉強した結果、工場一の仕事通となり、高給取りの外国人技師を解雇に追いやることになりました。12年20歳の時に社命でアメリカに渡り、製紙技術を修得し、日本に帰って製紙原料を従来のボロ布から稲わらに替えて大幅なコストダウンに成功しました。同17年ヨーロッパに渡りパルプ製造の方法を研究し、日本で初めて木材によるパルプ製造に成功すると共に、製紙原料の木材を煮る釜を研究して大川式ダイゼスターを発明しました。またアメリカのベネトン発電用水車に着目して研究を行い、同22年静岡県の気田工場に導入して、工場の動力系統をすべて水力とし、蒸気と汽缶を撤廃することに成功しました。このように技術革新に成果をあげて王子製紙会社の発展に貢献し、同26年には専務取締役に就任しましたが、三井財閥のカにより同31年に王子製紙を追われました。その後、九州製紙、四日市製紙、中央製紙等の経営に関与し、大正3年(1914)には樺太工業を創業、8年には富士製紙の社長となり、日本の製紙王と言われました。なお、樺太工業、富士製紙は昭和8年(1933)に王子製紙と合併し、平三郎は名誉社長、相談役になりました。この他平三郎が関係した事業は、浅野セメント、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管等80余の様々な分野に及んでいます。
大正7年(1918)当時県下の106店の銀行支店は、大半は弱小銀行でした。県産業界の中では、中核となる銀行の設立の声が高まり、9年に武州銀行が創設されました。大川は頭取に迎えられ、金融事業を通じて埼玉県の経済発展に貢献しました。郷里三芳野村(坂戸市)の困窮を救うため、11年に三芳野村信用購買販売組合理事兼組合長となって財政、庶務の改善に尽くすとともに、農家の副業として筵・縄等の製造を奨励し、自らが関係する会社に販路を開拓しました。また、小学校の建築や消防ポンプの購入に私財を投じた他、小畔川の氾濫による水害を防ぐため堤防を築きました。この堤防は後に大川堤と呼ばれるようになりました。また同14年50万円の私財を投じて、財団法人大川育英会を設立し、郷土の後進の育成に尽力しました。同11年緑綬褒章を受章し、昭和3年(1928)には貴族院議員に勅選されました。享年78歳。墓所は東京都北区田端の大龍寺。坂戸市横沼の勝光寺、三芳野小学校、道場橋脇及び樺太(サハリン)の須取町等に頌徳稗があります。

参考文献 『大川平三郎君伝』『吸戸人物誌』第1集。(埼玉人物事典)