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去程に将軍(足利尊氏)は君にたのまれ奉り給ム由、関東へ聞えければみな色をうしなう事、斜ならざる処に、五月中旬に上野国より新田左衛門佐義貞、君の御方として当国世良田に打出て陣をとる、これも清和天皇の御後胤、陸奥守義家(源)三男、式部大夫義国(源)子息大炊助義重(新田)、陸奥新判官義康(足利)の連枝なり。潜に勅を承に依て義貞一流の氏族、皆打立けり、先、山名・里見・掘口・大館・岩松・桃井、皆一人当千にあらずという者なし、しかるあいだ、当国守護、長崎孫四郎左衛門尉、即時に馳向て合戦に及といへども既に上野の輩のこらず義貞に属するにこそ、あひさゝふるに及ばず引退問、義貞多勢を引率して武蔵国に責入間、当国の軍兵も悉、隨付けるはどに、五月十四日高時の弟、左近大夫将監(北条泰家)入道恵性を大将として武蔵国に発向す、同日、山口庄の山野(1)陣を取て、翌日十五日分配・関戸河原(2)で終日戦けるに、命を落し庇を蒙者幾千万という数をしらず、中にも親衛禅門の宗との者ども、安保左衛門入道道潭(3)・栗田・横溝八郎、最前に討死をしける間、鎌倉勢悉引退く処に、則、大勢責上間、鎌倉中のさはぎたゞいま敵のみだれ入たらんもかくやとぞ覚えし、かゝりしはどに三の道へ討手をぞつかはされける、下の道の大将は武蔵守貞将(金沢)向ふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の儀有て責上間、武蔵の鶴見(橘樹郡)辺におひて相戦けるが、是も打負て引退く、武蔵路は相模守守時(赤橋)洲崎千代塚におひて合戦をいたしけるが、是も討負て一足も退ず自害す。南条左衛門尉并安久井入道一処にて命を落す、陸奥守貞通(北条)は中の道の大将として葛原(鎌倉)におひてあひたゝかふ、

〔注〕
(1)戸沢市山口か。
(2)分倍河原(府中市)、関戸河原(多摩市)。
(3)前号文書〔注〕参照。

〔解説〕
新田義貞の鎌倉攻撃を阻止しようと、幕府は北条泰家の大軍を分倍河原・関戸の多摩川渡河点に配備させた。武蔵守護代安保道潭(泰実)は関戸防衛戦で討死をとげた。