宇治(山城)・勢田(近江)や(敗)ぶれぬと聞えしかば、木曽左馬頭(源義仲)、最後のいとま申さんとて、院の御所六条(京都)殿へはせ(馳)まいる、御所には法皇をは(後白河院)じめまいらせて、公卿殿上人、世は只今うせんず、いかゞせんとて、手をにぎり、たてぬ願もましまさず。木曽門前までまいりたれども、東国の勢すでに河原までせめ入たるよし聞えしかば、さいて奏する旨もなくてと(ツ)てかへす六条高倉(京都)なるところに、はじめて見そめたる女房のおはしければ、それへうちいり最後の名ごり(残)お(惜)しまんとて、とみにいで(出)もやらざりけり、いままい(参)りしたりける越後中大家光といふものあり、いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ、御敵すでに河原までせめ入て候に、犬死にせさせ給なんず、と申けれども、なを出もやらざりければ、さ候ばまづ(先)さきだち(立)まいらせて、四手(死出)の山でこそ待まいらせ候はめとて、腹かきき(ツ)てぞ死にける。木曽殿、われをすゝむる自害にこそとて、やがてう(ツ)たちけり、上野国の住人那波太郎広純(1)が先として、其勢百騎ばかりにはすぎざりけり、六条河原にうちいでてみれば、東国のせい(勢)とおぼしくて、まづ三十騎ばかり出きたり、そのなかに武者二貯すゝんだり。一騎塩屋の五郎維広(2)一騎は勅使河原の五三郎有直(3)り、塩屋が申けるは、後陣の勢をや待べき、勅使河原が申けるは、一陣やぶれぬれば残党ま(ツ)たからず、たゞかけよ、とておめいてかく、木曽はけふをかぎりとたゝかへば、東国のせいはわれう(討)(ツ)とらんとぞすゝみける、

〔注〕
(1)上里町の対岸上野国那波郡の武士、秀郷流藤原氏。木曽義仲に属す。
(2)児玉郡塩屋(児玉町)の武士、児玉党。
(3)上里町勅使河原を本拠地とする武士。安保氏の一族。

〔解説〕
六条河原合戦で木曽方の那波広純らと、範頼・義経軍の塩屋維広、勅使河原有直が戦う。