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一 足利政氏書状

修理亮討死不及其詮候、連々忠信之処、如斯之段落力候、
無実子事雖勿論候、彼名代之事被相立候者、可然候
(梁田)
、政助別而可加扶助之上、於己後も心安可被存候、因茲
馳自筆候、巨細興印上人可被申候、恐々謹言、
(足利)
八月十一日       政氏(花押)
(宛名欠)

二 武田信玄書状

其地堅固之由安堵候、三嶋[ ] 在所、滝山両ロヘ人衆
立遣候、信玄者自帰陣之砌、以外違例候間、存外延引無
念候、雖然一両日得大験候条、三日之内ニ可出馬候、殊
以 公方御下知甲越和与過半落着可為大慶候、猶近日其
ロヘ出人衆可退治凶徒候、其間弥忠節肝要候、恐々謹言、
(永禄一三年・一五七〇)   (武田)
五月九日信玄(花押)
(宛名欠)

二 武田信玄書状の画像

三 武田信玄起請文

   敬白起請文目金銭吉卦企之
右意趣者、
一、今度向于駿州出陣、則蒲原落城、興国寺岡前、駿州
円令静謐、達信玄本意者、従来庚午歳可学天台之化行
之事、
付、従己巳十一月禁肉食、
一、越後潰乱出来、向吾信上ニ国不動于戈、然駿豆両州
(訪)
属信玄手裡者、諏方一郡無私用可寄附両者之事、
一、至于来庚午歳、如神約奉勧請飯縄於甲州之事、
付、如金銭文可有御社領、
三箇条理令達犯者、可蒙刀八毘沙門天王、諏万上下大
明神、飯縄大明神御罸者也、
(一五七〇)         (武田)
永禄十三己/巳十一月九日  法性院信玄(花押)

四 武田信玄知行宛行状

     定
甲州
一、弐百貫        松尾郷

一、百七拾貫       巨瀬村郷
信州
一、弐拾弐貫五百五十銭 今村郷

一、四貫八百     秋山兵部助■之地
都合参百九拾七貫三百五十文
此外陣夫五人
右如此相渡候、然者令嫁民部少輔息女於其他息、可為民
部少補遺跡層役等之儀者、露別紙候者也、仍如件、
(一五七一)
元亀二年辛/未
三月拾三日    信玄(花押)
追而民部少輔老母并後室堪忍分之事、可被渡塚原郷候、
以上、
兵庫助殿

四 武田信玄知行宛行状の画像

五 武田信玄軍役定書

    定
一、乗馬       三騎
付、甲手益、咽輪、宮具足、臑楯、指物持鑓可為
如法、
一、鉄砲       五挺
一、持鐙長刀共ニ   五本
一、長柄       拾本
一、弓        弐張
一、持小旗      三本
此内一本者積之外也、
右具在前、
(一五七一)  (龍朱印)

元亀二辛/未    〇
三月拾三日  跡部美作守奉之
兵庫助殿

五 武田信玄軍役定書の画像

六 武田晴信書状

為年頭之祝儀、太刀并肴到着目出珎重候、仍御同名尾州
へ別而申談候上者、有同意入魂所希候、何様従是以使者
可申述候条、不能重説候、恐々謹言、
卯月十一日     晴信(花押)
小幡三河守殿

六 武田晴信書状の画像

七 毛利元就カ書状断簡

重而御出国誠御辛労之至候、法泉寺為使下向候、明日従
腰原一里さきにて候たうの瀬と申所迄、可罷越候、然者
於彼在所ニ可待存候、此方へ被懸御意候者、弥可延引候
間明日直ニ可有御下向候、於子細者具法泉寺可申述候、
有御相談御申肝要候、既長府にて来十日御開陣候間、一
日も早々御参可然存候、委曲法泉寺ニ被申候間、(以下欠)

参考  武田晴信書状(陽雲寺文書、東京国立博物館寄託)
急度染自筆候、抑来六日不図出馬候、世上へ之比判を
(上田)
ハ(砥石)為再興出陣之由、堅可被申触候、努々勤なとの事、
不可有流布候、又其ロヲ可出馬候、然処ニ振舞之支度、
城之払地なとハ、さのミ不可被致結構候、必々砥石為普
(晴信・義信)
講、父子出張之由、可有比判候、恐々謹言、
(武田)
(天文二十二年・一五五三)     晴信(花押)
正月廿八日
(昌辰)    
小山田備中守殿