地域にあっての画像

 鴻巣馬室中学校に勤務していたキクは、昭和22年7月13日、夫、了がソ連領タイセット収容所で健在であることを知り、再び開拓への意欲がよみがえりました。そんなとき七本木開拓団の話を聞いたキクは、早速、手続きをすませ、夫が復員するまでに、少しでも開拓を進めるために、七本木中学校に勤務しながら、昭和23年1月5日に入植しました。
昭和24年9月、夫、了がようやく無事復員して、再び二人で土を耕す日々がもどってきました。昭和29年4月には、教職を離れ、「土に生きる」ことを決意しました。開拓地は「のっぺ」とよばれる洪積地(本庄台地)にあり、酸性土壌で、それほど農業に適した土地ではありませんでした。さまざまな作物を植え付け、何が適しているか手探りの状態でしたが、やがて西瓜やうどの栽培に全力をそそぐようになりました。
こうしてようやく農業経営が安定してきた頃、昭和36年に体験記「酸性土壌に生きる」が開拓15周年記念体験記特選農林大臣賞を受賞しました。

  昭和48年11月には、社会教育指導員となりました。特に婦人教育を担当し、「婦人だより」の刊行や婦人学級の開催など地域女性の生活・文化向上に尽力しました。
昭和50年には6月に国際婦人年の世界大会(メキシコシティ)にも参加し、また、10月には自伝書「紅翼と拓魂の記」を刊行しました。
一方、日本婦人航空協会理事としても活躍し、昭和51年、日本婦人航空協会による日本一周飛行では、東京-仙台間を飛行しました。
昭和51年朝のNHKドラマ「雲のじゅうたん」のモデルの一人として、再び注目を浴びる中、昭和54年10月6日 脳溢血でたおれ、そのまま波乱の生涯をとじることになりました。享年66歳。

  「ただ一度の人生だから、自分の可能性を追い求めよう。」
「生まれ変わっても私は、又この道を歩むであろうという道を今日も明日も歩みつづけたい。」
教壇で持っていたチョ-クを飛行機の操縦桿に、そして大地を耕す鍬へもちかえたキクならでは言葉です。

  1. かみさと広報(社会教育指導員に任命)
  2. 「紅翼と拓魂の記」
  3. 「婦人便り」