【山口六郎次】(やまぐち・ろくろうじ)明治29年7月21日一昭和36年11月28日(1896-1971)

 南埼玉郡日勝村(白岡町)生まれ。大正9年(1920)明治大学卒業在学中マラソン選手として活躍し、箱根駅伝にも出場しました。卒業後、報知新聞社に入社しましたが、4年にして退社し、12年埼玉協会を創設し月刊「埼玉及埼玉人」を発行、愛郷精神を説き、県民運動を提唱しました。関東大震災の際には、在京県人救護団を組織して罹災者救助に奔走しました。14年大日本体育協会・全日本陸上競技連盟の常務理事に就任し、マニラで開催された極東オリンピックに日本代表役員として参加するなど、スポーツ界にも貢献しました。大平洋戦争中、一時衆議院議員横川重次の秘書を務めました。他方、全国亜炭統制組合理事長に就任して、戦中戦後の燃料増産に関与しました。昭和22年(1947)これまでの人脈を背景に埼玉2区から衆議院議員に当選し、以後死去するまで通算5期在職しました。この間衆議院法務委員長、第3次吉田内閣行政管理政務次官、第1次池田内閣建設政務次官を務め、また、民主自由党総務・政調会内閣部長、日本自由党政調会副会長、自由民主党全国組織委員会副委員長、広報委員会副委員長兼遊説局長、副幹事長となりました。政界入り後も、埼玉県体育協会・県自転車競技連盟の各会長、全日本自転車競技振興会の副会長に就任するなど、スポーツ振興に尽力しました。東京箱根駅伝の育成にも努力し、その功績を称えて、同36年箱根に記念碑が建てられました。このほか埼玉新聞社理事・一日一善会会長等、多くの公職を兼ねていました。享年65歳。参考文献「山口先生追悼録」。(埼玉人物事典)