武蔵(の)国(の)住人勅使河原権三郎有直は(1)木蘭地の直垂に、黒糸威の胃に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄 賂馬 に黒漆の鞍置てぞ乗りたりける、同四郎有則(2)はひらくくりの直垂に赤威の鎧同じ色の甲に、十八指ある鴟の石打頭高に負い、三所籐の弓の中取て、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。兄弟二騎は三百余騎にて追懸申けるは、北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給もの哉、源氏の名折れとは不二思召一や、無跡までも名こそ惜しけれ、返合給や、返合給やとて、二重三重に打並て、武蔵国住人勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八と名乗懸、轡をならべて喚て莵、木曽十余騎馬の鼻を引返し、杉のさきにさと立て宣けるは、有直慥に承れ、義仲にはあはぬ敵と思え共弓矢取身は大将軍の詞一も得るこそ嬉しけれ、現世の名聞、後生の訴にもせよとて弓をば脇にはさみ、太刀の切鋒打つるべて、勅使河原余すなとて、蛛手十文字竪様横様切廻ければ、三百余騎の大勢も五十余騎に被二懸立一て、馬の足立る隙こそ無りけれ。只小勢に附て五廻六廻が程廻りけるが、有直弓手の肘、被二打落一て神楽岡を指して引退く、五十余騎の勢も被打て、二十五騎にぞ成にける、木曽危見けるを、根井小弥太・左近五郎・岡津平六兵衛・城小弥太郎兄弟二人、佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ、諸岡(3)又秩父諸岡打囲て散々に攻ければ、木曽方にも根井次郎行直・進六郎親直等思切て大勢の中へ打入て、命を不惜我一人と戦たり、小勢懸れば大勢さと引退、大勢懸れば小勢さと引退、寄つ返つせし有様は、辻風の塵を巻にぞ似たりける、其手をも打破って落行ば、横山党に(4)奥次と、三浦党(5)に佐原十郎・三浦二郎、三百余騎にて、漏すなとてこそ攻戦けれ、二十五騎と見しか共、僅かに十二騎に成にけり、

〔注〕
(1)上里町勅使河原出身の武士。有直は鎌倉幕府成立期に大活躍する。
(2)有直の弟。
(3)武蔵国師岡保(横浜市神奈川区)を基盤とする秩父党の武士。
(4)小野姓の横山党、主に八王子市域に展開。(5)三浦半島の三浦一族。

〔解説〕
元暦元年(一一八四)一月、源範頼・義経に追われて京都を脱出する木曽義仲を、勅使河原有直・有則兄弟は追撃する。