陸上の道

中山道

「中山道分間延絵図 神流川の渡しの画像
「中山道分間延絵図 神流川の渡し

 江戸幕府によって整備された五街道(東海道・中仙道・甲州道中・日光道中・奥州道中)のひとつとして、江戸日本橋より武蔵(東京都・埼玉県)・上野(群馬県)・信濃(長野県)・美濃(岐阜県)・近江(滋賀県)の五ケ国を通り、京都を結ぶ街道で、最後の草津・大津の二宿は東海道と重なっています。江戸から草津まで百二十九里十町八間、京都まで百三十五里三十四町八間ありました。(一里は3.92727km、一町は109.09m、一間は1.81813m)
 本庄宿と倉賀野宿との間は、はじめ本庄から玉村を経由して倉賀野に出ましたが、慶安四年(1651)に落合新町、承応二年(1653)に笛木新町が伝馬役を命ぜられたとされ、新町宿は中山道の中で最も遅く成立した宿場となりました。これによって板橋より守山まで六十七宿となりましたが、東海道と重なる草津・大津の二宿を加えて中山道六十九次と呼ぶのが通例とされています。
 この街道は上野・信濃・越後・越中・加賀国などの三十余の大名の参勤交代のほか、日光例幣使の下向などの通行に使われていました。また比宮(なみのみや・徳川家重室)・五十宮(いそのみや・徳川家治室)・楽宮(さざのみや・徳川家慶室)など徳川将軍家の夫人となるため東下した皇族や摂家の女性の多くも中山道を通りました。中でも、文久元年(1861)の和宮(かずのみや 徳川家茂室)の通行は前例のない設備・警備となりました。
 上里町では、本庄宿と新町宿の間、石神村~金久保村~勅使河原村を通っています。その当時の様子が絵と文によって詳しく描かれている「中山道分間延絵図絵図」によれば、本庄宿より石神村まで一里(3,927.27メートル)、石神村から新町宿まで一里と両宿場の中間に位置している石神村は、典型的な中山道の街並を形成していました。
 小嶋村(現本庄市小島)の一里塚から、石神村へ向かうと左側に富士浅間神社(浅間山古墳 上里町指定文化財)があり、その前に茶店が一軒ありました。そのまままっすぐ進むと街道から街並が見渡せないように道が鍵形に曲げられ、楠森橋のたもとには、立場(宿駅の出入口にあって旅人・人足・伝馬などが休憩する茶屋)が設けられていました(『木曽路名所図絵』に「石神より左の方に赤木(赤城)見ゆる。富士峰に似たり。此所立場也」の記載がみえます)。街中には馬の飲み水や雑用のための水路が道の片側に設けてあります。村の中央には酒屋、髪結いがあり、村の端にかけて茶屋、一ぜんめし屋、菓子、とうふ、紙、わらじなどを商う家が軒をつらねていました。また、2カ所の高札場や安盛寺や養善寺、薬師堂、石神神社、若宮八幡神社、金比羅宮なども記載されています。
 金久保村へ向かう出入口も道は鍵形に曲げられ、養善寺前(現一丁目交差点付近)の土橋を渡ると右側に忍保村へ通じる道があり、それを過ぎると道沿いに二列にならぶ金久保村の家並は、真直ぐで見通しもよく、道の維持管理も行き届いていたようです。村の中央に鎮座する八幡神社の前に高札場が設けられ、さまざまな触れが出されました。
 ここを過ぎると三国街道の分岐点があり、右に向かうと十五丁(1635メートル)程先で、藤ノ木河岸を経て上野国玉村(現群馬県玉村町角淵付近)に続きます。中山道沿いには右側に畑時能の墓(畑児塚 現在は陽雲寺に移転 県指定文化財)と伝えられる愛宕神社があり左側には、武田家ゆかりの陽雲寺山門があって、今も往時の格式の高さをしのばせています。
 現在の賀美小学校の西を流れる用水には当時橋(下橋)が架けられ、これを渡ると、中山道武州路最後の勅使河原村にはいります。勅使河原村には、庚申塚や一里塚があり、新町宿へ向かうと神流川の渡し場がありました。ここには、常水時には仮土橋があり、満水時には、渡船によって対岸の新町宿に渡していました。(「此川常水之節ハ仮土橋出水之節ハ船越ニ成川巾二十間(23,63m)」余ニ成川留と記載されています。)また、この渡船は、原・勝場・真下・堀込を含めて川越役を一ヶ年の当番制で受持ち、往来の便をはかっていました。しかし、長雨や豪雨、堤防の決壊により、これらの地域の人びとの苦労は大変なもので、当時の様子が古い文献に刻名に記されています。

 

「支蘇路ノ駅」『本庄宿 神流川渡場』

大判錦絵 24,2×36,2センチメートル
版元保永堂(竹内孫八)

「支蘇路ノ駅」『本庄宿 神流川渡場』の画像 浮世絵師【渓斎英泉】(1790~1848)によって天保6年(1835年)に描かれた、木曽路六拾九次中の一枚で、本庄宿として武蔵国勅使河原村から上野国新町宿へ向かう神流川の渡し場の様子が描かれています。
 神流川には二筋の流れがあり、その中央の中州まで板橋が架けられ、その板橋を今参勤交代の大名列が渡っています。中州からは対岸の新町に渡るために渡船が描かれています。
 また、上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)と日光男体山・浅間山が雄大な山並をみせています。板橋のたもとと対岸の新町宿の入口には、見透燈篭(現在は大光寺所有 町指定文化財)が描かれていますが、若干その様相は異なっています。

 

渓斎英泉

見透燈籠

見透燈籠の画像上里町指定文化財
指定番号28
管理者 大光寺
指定年月日 昭和37年2月22日
 文化12年(1815年)本庄宿名主の戸谷半兵衛門が神流川渡し場のたもとに、夜間燈を灯して神流川を往来する旅人の目印および安全祈願のためこの燈籠を建立しました。
 正面には大窪誌仏による「常夜燈」、と桑原北林による「金比羅大権現」の文字が、右側面には「燈に背かざりせば闇路にも迷ひわせまじ行くも帰りも」と秋因の和歌が、刻まれています。また裏面には、文化12年歳在乙亥夏、と建立年が、左側面には、建立者である戸谷半兵衛の名前もみえます。
 しかし せっかく建立されたこの燈籠も文政5年(1822年)秋の洪水で倒れ、その後安政4年(1857)5月に村人と大光寺の協力により再建されました。その後明治20年代に現在の地に移転されています。
 また、対岸にあった灯籠は、現在高崎市大八木の諏訪神社に移されています。

 

【岐蘇路安見絵図(桑楊編)】宝暦6年(1756) (埼玉県立博物館提供)

【伊香保志 上】

川の道

川岸場

利根川川筋絵図面 八町河岸の画像
利根川川筋絵図面 八町河岸

 江戸時代に入ると商品経済が発達し物資の運送が盛んになりました。都市と農村を結ぶ流通の大動脈として川が利用されました。上里町の北を流れる利根川や烏川も大事な流通の川として利用されました。川の港として整備されたのが「川岸場」です。上里町の烏川沿いにも八町川岸と藤ノ木川岸がつくられました。藤ノ木川岸は、川の流れが変わったことから黛村へ移転しました。川岸場には、近郊の農産物ばかりではなく遠く長野方面からも物資が集められ江戸に送られました。江戸からは、綿織物や水産物などが送られてきました。