今回は、「ミスター・プロ野球」と呼ばれ、日本を代表するスーパースターとして活躍し、6月3日に亡くなられた元巨人の長嶋茂雄さんの足跡をたどってみたいと思います。
6月4日の日経新聞【春秋】欄に、歌手のさだまさしさんが挫折の多い10代を過ごした経緯が紹介されています。バイオリン奏者を目指し、中学入学とともに長崎から単身で上京しましたが、高校受験に失敗。後に体を壊して大学も中退し、失意のうちに帰郷しました。苦しい9年間を支えたのがラジオで聞く長嶋さんの活躍だったと語ります。まさしくこの時期は、巨人の日本一連覇と重なります。
つらい時を耐えられた理由は、「自分の思い入れを託せるヒーロー」長嶋さんがいたからだと振り返ります。さださんだけではありません。昭和の輝きは陰りと表裏一体でした。物価高、住宅難、通勤地獄、公害や仕事の嫌な思いを、長嶋さんの豪快なプレーで忘れ、眠りについた人は多かったでしょう。
ここで野球の歴史をひもとくくと、1950年代、東京6大学リーグ戦が高い人気を誇っていました。その人気の中心にいたのが、1954年に立教大学に入学した長嶋さんでした。期待の新人は、監督の砂押邦信さんに徹底的に鍛えられました。長嶋さん自身が「闇夜の1000本」と称した特訓です。月の無い夜には、石灰の白い粉を塗られたボールがノックバットから強烈な打球となって伸びます。真っ暗闇から突然、にゅーっとボールが飛び出してきたのです。腰が引けると「何だそのざまは」と怒鳴られました。厳しい指導ではありましたが愛情を感じていました。
この師について、「毎晩ノックを受け、バットを振らされたことは忘れられない。そのおかげで私の野球は基礎が固まり、プロでやる自信がついた」と述べています。自分で失策を犯しては投手に「ドンマイ、ドンマイ」と声をかけたり、練習に夢中になるあまり、後楽園球場に息子の一茂さんを置き去りにして家に帰ってしまったエピソードもあります。
天真らんまんさで天真らんまんさで世界中の人に愛される大谷翔平さんに連なるプロ選手の理想像を、長嶋さんは打ち立てたと言えるでしょう。

【いでよ、未来のスター・プレイヤー!~少年野球大会の様子~】