4月5日㈯、上里町の隣にある高崎市新町で開催された「新町駐屯地創設74周年記念行事」にご招待いただき、自衛隊の模擬訓練を拝見しました。
 駐屯地の片隅には、「神流川古戦場跡」の碑があります。この一帯が合戦の主戦場で、埼玉側は現在の勅使河原、金久保と神保原周辺であり、群馬側は新町、藤岡市および玉村町周辺が該当します。神流川合戦から約4百年を経た現在、在りし日の将兵と関係者の冥福を祈り、移り行く歴史の概要を記述した瀬下一夫氏の史記に触れてみます。
 戦国争乱の世を統一した織田信長に関連し、天正10年(1582年)、天下を震撼させる一大事件が突如勃発しました。信長の智将である明智光秀が、本能寺に宿泊していた主君を討ち取った事変、「本能寺の変」です。

 織田方の重臣の一人で、関東官領の職を持ち、厩(うまや)橋(ばし)城主(じょうしゅ)(現、前橋市)である滝川一益は、弔
い合戦の上で、天下制覇の野望に燃えていました。上州の諸将を招き、本能寺の変の状況を説明し、光秀討伐の決意を表明しました。各武将は一益の決意にいたく感動し、協力を誓います。一方、滝川軍が光秀のいる京都へ向かうためには、北条との決戦は避けられません。

 滝川軍はむざむざ城を北条方に明け渡すことは偲びがたいと、和平と戦いの両面での対処について使者を立てましたが不調となります。滝川軍は手勢1万8千の軍勢が動き、戦機熟すと判断した北条軍は、小田原城主氏直を総大将とし、5万の大軍で神流川を目指し前進、その先陣は神流川原昆沙吐に進出しました。神流川合戦の結末としては、初戦は滝川軍の勝ち、終戦は北条軍の勝ちと言えると瀬下氏は記述しています。

 なお、上里町内の地名「勝場(かっぱ)」の由来ですが、北条氏家が戦い終えて、敵方を望みつつ、今日よりこの地を「勝場」
(勝利の場所)と呼ぶとした説があります。ご紹介した史記は、神流川合戦が忘れ去られようとする状況を筆者が惜しみ、後世
に語り継ぐ一助になればと思い、歴史の一部をひもといたものとなっています。